看取り直前の救急搬送は、訪問診療の「失敗」なのでしょうか?

救急車

今日は自宅で最期を迎えたい、迎えさせてあげたい、と願う患者さん、ご家族に知っておいていただきたいこと、また過去に訪問診療を利用していたけれど、看取りの直前に入院になり、願いを叶えてあげられなかった、というご家族。そしてそのような患者さんを受け持っていたことのある訪問診療や訪問看護に携わっているすべての医療者の方に届けたい記事です。

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訪問診療医の後悔

訪問診療医の多くは、特に看取りを意識して訪問している患者さんの場合に患者さんが救急搬送になると自分の診療が「失敗してしまった」と感じる医師が、あるいは看護師が、多くいるようです。

講演や勉強会でも、「残念ながら入院となってしまいました」と申し訳なさそうに話すDr.を数多く見て来ました。…かく言う私も、そのように考えることがあります。

確かに救急搬送は蘇生⇒延命治療となりやすく患者さんの安らかな最期を妨げる可能性があります。

在宅では診断能力や積極的治療こそ病院に大きく劣りはしますが、抗生剤治療、輸液、オピオイド(医療麻薬)のほか、鎮静なども行えますので、この時期の患者さんにとって症状緩和の面では病院とあまり大きな差はないのです。

だからこそ、住み慣れた環境で最期を迎えられた方が患者さんにとって良かったではないか、「失敗してしまった」のではないかと感じるのでしょう。逆に在宅で穏やかな最期を迎えることが出来れば、訪問診療医は役に立てたと感じ嬉しいものです。

成功か失敗かを判断するのは医師ではない

ただ、「失敗」と考えるのが誰か、ということが大切だと私は思っています。医療者と患者さん・家族では知識も経験も、置かれた立場もあまりに違います。

入院中に亡くなったある患者さんの御家族が、「入院中で良かった、自宅では私が責任を感じて苦しくなってしまったと思います。」とおっしゃっていました。

それを聞いて、「残念だった」と感じていた私はハッとした記憶があります。

頑張ってしまう、責任を感じ過ぎてしまう御家族の場合、大きな負担を抱え、心身の限界を迎えてしまうこともあるのです。

救急車とハート

また患者さん御本人も、「何が何でも自宅が良い」という方ばかりではありません。状態が悪くなれば「病院の方が安心」「家族に負担をかけたくない」と考える方は少なくなく、また「自宅が良い」とおっしゃっていた方でも「やはり入院したい」と考えが変わることもよく経験します。

「何がなんでも絶対に病院には行かない」という方はむしろかなり少数という調査の報告もあります。

医療者自身が訪問診療を振り返り、もう少し、あれが出来た、これが出来たと反省することはもちろん悪いことではありませんが、大切なことは御本人・家族の考え方、感じ方です。逆に医療者の価値観や想いばかりを先行させてしまうのは望ましくないと私は思います。

看取りは最期を迎える場所が全てではない

もちろん、最期は家でと強く希望する患者さん、ご家族もいらっしゃいます。その場合、予想外の症状の変化が起こった時に病院に搬送となり、そのまま亡くなってしまったことを、自宅療養の「失敗だった」と悔やむ、残念に思う人もいるでしょう。

しかし、たとえ最後の数日、数週間が不本意にも病院で過ごす時間だったとしても、それまでに自宅で過ごした時間は無駄だったことになるのでしょうか?そんな事はないですよね。

自宅で苦痛を抑え、望む場所で家族と過ごすことの出来た全ての時間が、亡くなる時ではなく生きている時間こそが在宅療養の価値です。医師は最期の瞬間を迎える場所について、少しこだわり過ぎなのかもしれません。

まとめ

看取りの瞬間だけが訪問診療の価値ではありません。自宅で家族と過ごした時間の全てが、むしろその過程こそが患者さんにとって宝物になるのではないでしょうか。最後まで、と気負い過ぎず出来るところまでやろう、というつもりで始めてみるのも良いと思います。

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この記事を書いた人

元ホスピス勤務医、総合内科専門医。2013年7月大田区久が原に「小原りぼんクリニック」を開業。緩和ケアと認知症診療、訪問診療をライフワークにしています。介護は、まずは家族を支えなければ始まらないをモットーに、対話を重視する診療を心がけています。

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