患者さんがいよいよ亡くなる時、その瞬間に立ち会いたいというご家族はとても多いです。お別れの前に会いたいのも、ひとりで逝くのは悲しい、かわいそう、という気持ちも当然ですので、これはとてもよく分かります。
余談ですが、この話をするといつも思い出すのは、斎藤茂吉の「死にたまふ母」という短歌集です。母親の危篤の知らせを聞いて汽車に乗り駆けつける息子。斎藤茂吉は医師でした。時代は変わっても、誰にとっても亡くなりゆく親に一目会いたい気持ちは変わらないと思うのです。
みちのくの母の命を一目見ん一目見んとぞただにいそげる
しかし、中には「今からそちらに向かうので、私が到着するまでもたせて下さい」という要求をする家族がいます。これも気持ちは分かりますが、それは誰のためなのか考えてもらいたいと思います。
この時、多くの患者さんは既に意識がなく、安らかに最期を迎えようとしていますが、延命の処置によっていくらかでも意識が戻ろうものなら、多大な苦痛を経験し安らかな最期を台無しにする可能性があります。
そうでなくても、意識がない患者さんに会っても患者さんは既に分からないかもしれないですし、嬉しいとか有難うとは言えないのです。こころは通じる、というなら、それは横に立たなければ通じないものなのでしょうか。
そもそも、意味が違う
この記事では「患者さんが亡くなる瞬間に立ち会う」という意味で敢えてよく使われるこの言葉を使っているのですが、本来「親の死に目に会えない」という言葉は、「親よりも先に死ぬ」という意味でした。
ですから、「親の死に目に会えないのは親不孝」という言葉は、「死の間際に隣にいないと親不孝」という意味ではありません。更に言うと確かに子どもの死ほど悲しいことはないと思いますが、同時に「親が悲しまないように命を大事にしろ」という戒めの意味であるように私は思っています。
自分が親の側を想像すれば分かると思いますが、臨終の際にお子さんが傍にいなくても親不孝などとは少しも思わないのではないでしょうか。
死の瞬間は予見出来るか
患者さんがいつ亡くなるか。これを確実に予想する方法はありません。
もっとも、「だいたいは予想出来る」ことは多いです。意識の混濁、血圧の低下と尿量の極端な減少、チェーン・ストークス呼吸や下顎呼吸、末梢チアノーゼやタール便(消化管の出血)。こうした兆候が次々に起これば私たちは「危篤」という言葉で家族に伝えたりします。
しかし、意識や血圧などは回復することもあります。病院の医師や看護師は、「患者さんが亡くなる時に傍にいたいだろう」と思うのでこのような変化があれば「そろそろ危険かもしれません」と家族に連絡をします。しかし家族が病院から呼ばれたが、また小康状態に戻ったから…と家族が解散して家に帰るということも決して珍しくはありません。
これは、死期を予測することの難しさを示しており、逆に言えば人はこのようなことを繰り返して最期を迎えるものだ、とも言えます。何度も繰り返されると家族はそのたびに心配しお疲れにもなると思いますが、正確な判断が難しい以上、間に合いたいならそこは諦めていただくしかありません。
突然に亡くなることも少なくない
上記のような、亡くなる前の変化は多くの場合にみられますが、予兆なく亡くなるかたも2割くらいはいらっしゃると言われています。
たとえば、弱った心臓は致死的な不整脈が起こりやすくなります。これにより急に心停止が起こり得ます。「心臓マヒ」という表現がイメージしやすいかもしれません。
ほかには心臓や肺の大切な血管が急に詰まったり、お腹の中で大量の出血が起こることもあります。また、痰が多い場合気道に詰まってしまうこともあります。
このようなアクシデントで急に亡くなってしまうことは医師や看護師にも全く予測がつかないので、判断をより困難にしています。
ずっと傍にいて立ち会えないことも…
ご家族の中には、お別れの瞬間にどうしても立ち合いたいと四六時中患者さんの横についている方もおられます。お気持ちは痛いほど分かるのですが、これは心も身体も本当に疲れます。
もちろん、家族が複数いて交代出来るならまだ良いのですがお一人だとまともに眠れない、入浴も出来ない、外出はもちろんトイレも慌てて出て来るような生活になります。
数日ならまだしも、これを真面目にやり過ぎた結果家族に限界が来て結局入院になってしまった、とか疲れ果てて「先生、まだですか」などとおっしゃるケースも冗談ではなく時々経験します。親のために傍にいるつもりが、これだと本末転倒な気もします。
そして、これだけ頑張っていても、ふと目を離した短い時間で亡くなってしまうこともあるのです。
本当に大切なことは何だろうか
大事な家族の最期が近づいてくると考えが混乱し不安や悲しい気持ちでいっぱいになる、という人も多いと思います。
このため、ずっと付きっきりになったり、本当は危篤になってしまう前に会うべきだと思うのですが、逆に会うのが怖いという心理も働くかもしれません。
しかし、ここまで述べたことが分かれば、人の死というものは人智を超えていて、亡くなる患者さんに立ち会えるかどうかは運も大きいのだということがお分かりだと思います。「運が悪い」ことは親不孝でしょうか。違いますね。
親孝行は、可能であれば意識があるうちに、出来る時にして下さい。会うのは短い時間でも良いですし気持ちが伝わればズームでも電話でも良いと思います。限られた機会でも、そこにたくさん気持ちをこめて欲しいと思います。
まとめ
核家族、グローバル化により離れて暮らす家族が増え、患者さんが亡くなる時に間に合わないというご家族は多くなりました。また、最期の正確に時を予測するのは結構難しい側面があることもご理解いただいた方が良いように思います。
患者さんが亡くなる瞬間に傍にいられればベターかもしれませんが、必要があるかと言えば私はないと思います。むしろこだわり過ぎると本質が見えなくなるように思います。可能な限り普段から足を運び、眠らずに傍にいるよりも親をしっかり支えるために自分もしっかり休む方が良いのではないでしょうか。
気持ちや想いは距離に関係なく届くものですし、最高の親孝行はむしろ親が亡くなったあとに子どもたちが前を向き、力強く生きていくことではないかと思います。
おまけ
今回の記事に関連した書籍の紹介です
【死亡直前と看取りのエビデンス】
森田達也先生ほか。死前喘鳴や下顎呼吸から亡くなるまでの時間の中央値、バイタルサインに変化が出るのはいつ?など看取りにまつわるエビデンスが多数紹介された本です。医療者向けです。
【赤光】
冒頭でご紹介した斎藤茂吉の「死にたまふ母」を含む短歌集です。
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